大阪の陣後の真田信之、上杉景勝、直江兼続、伊達政宗は?

こんばんは。無精者(ぶしょうもの)です。

本日(2016年12月18日)に最終回を迎えるNHK大河ドラマ「真田丸」。

今回はそれに関連して、大坂夏の陣が終結してからの主要登場人物のその後について調べていきます。

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真田信之

真田幸村(信繁)の兄。大坂夏の陣後、1622年に信濃上田藩9万5,000石から信濃松代藩に加増移封され13万石の所領を得ました。なお、このとき沼田3万石も据え置かれました。また、信之はかなりの倹約家であったため、上田藩時代に溜めた約20万両を松代藩に持ってきたと言われおります。

松代藩は信之が入封する前は、松平忠輝(徳川家康の6男)、松平忠昌(徳川家康の次男の結城秀康の次男)、酒井忠勝(譜代大名、徳川家の家臣)など、将軍家の近親者あるいは家臣が任される重要な土地でした。そのため、その地を任された信之は、弟の信繁が大坂の陣で豊臣方に付いたにもかかわらず、幕府からの信頼が厚かったのだと思います。

その後、信之は1656年に隠居するまで藩主でした。1656年といえば時の将軍は4代目:徳川家綱の治世です。信之はこのとき齢90才です。長男の信吉(側室:こうが生んだ子)とその息子が既に死去していたため、家督を継いだのは次男の信政(正室:稲が生んだ子)でしたが、その信政も2年後に亡くなってしまいます。この後、真田家は信吉系統と信政系統で後継者争いが起こりますが、最終的には信政系統の幸道が第3代藩主となります。(名前の”幸”を戻したのでしょうか)

この年(1658年)、信之は93歳で亡くなりました。

その後の松代藩は幕末まで存続し、戊辰戦争では新政府軍に参加して軍功を挙げたため、最期の藩主家は華族に列し、子爵を授けられました。

上杉景勝

大坂冬の陣では軍功があったものの、夏の陣では京都を警護するため八幡山に布陣し、戦そのものには参加しませんでした。

その後、1619年に2代目将軍:秀忠の上洛にお供し、1621年には伊達政宗・佐竹義宣とともに秀忠から接待を受けました。

1622年には、出羽山形藩主:最上家(1600年に上杉家と長谷堂の戦いで激突した因縁の相手)がお家騒動によって改易されたため、最上家の居城である山形城の受け取り役を務めました。

1623年、69歳で亡くなりました。

その後、上杉が藩主を務めた米沢藩は幕末まで存続し、紆余曲折あったものの最後は新政府軍に恭順し尽力したため、藩主家は華族に列せられ、伯爵を授けられました。

直江兼続

1619年、藩主上杉景勝に従って将軍秀忠の上洛にお供します。しかしその後、病にかかってしまい翌年の1620年に亡くなりました。

兼続には息子がいましたが既に亡くなっており、さらに娘の婿養子として本多政重(本多正信の次男、本多正純の弟)を迎えておりましたが、その娘が無くなってしまったことで養子縁組が解消されていました。そして、兼続が亡くなったことで直江家は男子がいなくなり断絶してしまいます。

ただ、この断絶は兼続が意図的にそう仕向けたという説があります。というのも、上杉家は所領が120万石から30万石に減ったにもかかわらず、家臣をリストラしなかったため財政が非常に厳しかったと言われており、家臣の中でも高禄であった兼続は自家を断絶させることによって少しでも上杉家の財政状況を良くしようと考えたかもしれないのです。これが本当であったのなら、自分の死すら主君・主家への貢献を考える忠義の臣だったのですね。

伊達政宗

大坂夏の陣での活躍が認められ、長男(側室が生んだ子)の秀宗が伊予宇和島10万石を与えられました。

その後は、仙台藩の経営に力を入れ、石高は表高62万石であったが実質74万石まで生産力を上げたと言われております(なお、1700年台には実質100万石を超えるたとも言われております。)

1635年、第3代将軍:家光が参勤交代を制度化し、すべての大名を家臣とする旨を宣言した後、政宗はすぐに「将軍の命令に違反する者がいたら、この私にその者の征伐を命じてください」と申し出たため、他の大名は誰も反対できなくなったと言われております。翌年の1636年、68歳で亡くなりました。

その後、仙台藩は幕末まで存続し、奥羽越列藩同盟を結成、その盟主となりました。しかし、新政府軍に敵対することになり、結局は降伏しました。戦後はその責任を問われ、表高62万石から実質28万石まで減らされました。

晩年、政宗と宇和島藩主となった長男の秀宗は折り合いが悪かったと言われております。政宗が送った家臣とその一族がことごとく殺害されたことを、秀宗が自分と幕府にいっさい報告しなかったことが原因で、政宗は激怒し秀宗を改易させようと幕府に働きかけをしました。結果、幕府の取り成しで政宗は秀宗を許し、その後両者の関係は歌を詠み合うなど良好なものになったと伝わっております。

以上、ここまで読んだ下さった方々、誠にありがとうございました。

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無精者のかわら版 記事下
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