大阪夏の陣 討死したのは誰?その2

こんばんは。無精者です。

今回も最終回まであと2回に迫っている「真田丸」の一番の目玉、「大阪夏の陣」で討ち死にした主要な武将について調べていきます。

「真田丸」をご覧になっている方には申し訳ございませんが、ネタバレですので、以後はご覧にならないほうが賢明かと思います。ドラマをご覧になっている方で早く結末を見たい方のみご覧ください。

では以後ネタバレです。(スペースを少しとります)

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3人目

木村 重成

真田丸では、若く経験不足な面がありつつも真田幸村など歴戦の将に学び、成長していく姿が描かれています。

彼についてもあまり多くは知らなかったので、調べたことについて記していきます。

1593年生まれで、大坂夏の陣(1615年)が起こったときには22歳になっておりました。

重成の父親は豊臣家家臣の木村重茲と言われております。重茲は秀吉のもとで数々の武功を立て、最終的には秀吉の甥:豊臣秀次の家老となり、山城国淀18万石を領する大名へ出世しました。しかし、秀次の起こした事件の責任をとって自害、さらに長男と娘も同様に失ってしまいました。このとき、重成だけは幼少のため刑を免除され、豊臣秀頼の小姓となりました。その後は、成長するとともに秀頼の信頼を受けるようになったと言われております。

さて、彼が討ち死にした戦は「若江の戦い」と言われております。現在の東大阪市若江本町周辺に彼の陣があったと言われております。重成は着陣すると、藤堂高虎の先手部隊と激突し、高虎の家臣を打ち取るなどの活躍を見せ、先手部隊を敗走させます。この後、重成は家臣から兵が疲弊しているため一度撤退すべしと進言を受けますが、これを一蹴してしまいます。そうこうしている間に、今度は徳川家重臣であり、赤備えで有名な井伊直孝隊が重成隊に襲いかかってきます。重成は果敢にも井伊隊に突撃を敢行しましたが、兵が疲労していたためフレッシュな井伊隊に押され続け、次第に劣勢となり打ち取られてしまいました。

戦の経験が不足しているかと言われればその通りです。事実、彼の戦歴は大阪冬の陣しかありませんでした。しかし、それは相手の井伊直孝(25歳)も同じで、結局のところ豊臣方と幕府方の兵数差が2人の命運を分けたと言えると思います。

また、重成は兜にあらかじめ香りを付けておき、自らの首が晒された場合(首実験)に備えていました。首実験の場で重成の首から香りが立ち込めたため、徳川家康は重成を最後まで「礼儀を欠かさない人物である」と感嘆したという逸話が残っております。

4人目

増田盛次

残念ながら真田丸には出てきてませんが、彼にもストーリー性があるため今回取り上げたいと思います。

盛次の父親は豊臣政権五奉行の1人、増田長盛です。関ヶ原の戦いのときに長盛ともに西軍として参加しましたが、戦後に長盛が流罪となった一方、盛次はなんと徳川家康に仕えることになりました。

その後、家康の息子である尾張の徳川義直(御三家・尾張徳川家の初代)に仕えました。大阪冬の陣が起きると、義直に従って戦に参陣しました。このとき、大坂方が優勢だと笑顔が、劣勢だと険しい顔になったと言われております。

その後、徳川義直に了解をもらって、なんと大坂方に転じます!おそらく、その了解は徳川家康の判断だと思いますが、良い風に捉えると豊臣の恩顧に応えようとした盛次の忠義心に感動したため、転じることを許したとも考えられますが、リアルに考えると、このまま自軍にいられたら戦場で裏切る可能性があったため、先にそのリスクを切っておいたのかもしれません。

さて、そんな盛次が討死した戦いは、木村重成の「若江の戦い」とほぼ同時刻に起こった「八尾の戦い」です。盛次は長宗我部盛親の隊に属して藤堂高虎の先手部隊と戦い、一時は優勢な状況でした。しかし、木村重成隊の敗走が伝わると、盛親を撤退させるためのしんがりとして勇猛に戦ったのですが、藤堂隊の追撃が激しく、盛次は打ち取られてしまいました。

負ける可能性が高いのに大坂方に転じる盛次は最高の忠義者ではないでしょうか。わたしには到底そのようなことはできません。。。

まとめ

今回は木村重成増田盛次の最期についてご紹介いたしました。次回はまた明日以降にします。

以上、ここまで読んでいただき誠にありがとうございました。

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無精者のかわら版 記事下
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